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2024年3月31日 礼拝

説教概要

​主は岸辺に立たれた

小泉 智牧師

ヨハネによる福音書24章1節~14節

復活の主に出会い、漁をする弟子たち。主から使命を託された伝道と重なります。しかし成果が何一つ見られません。湖が支配者ティべリウスの名で呼ばれる厳しい時代。復活の主はそこに立たれます。自分が調子がいいから来て下さるのではありません。立ち直れない挫折の中に何度も現れて下さるのです。

 

頭では復活を知っています。しかし復活が生活の現実と繋がらない。その結果、主に気づかない。しかしこちらの心境に関わりなく、主の不在はあり得ません。その場を治めるいのちの主がおられるのです。

 

主だと気づくのは愛する弟子の証言からです。気づいた者から隠さず打ち明けるなら、連鎖反応が起こります。契機は大漁の魚ですが複雑です。不漁はプロの経験も場数もコツも自信も何の役にも立たないことを露呈するのですから。

 

主のために何かしようとするなら、得意分野を生かすでしょう。しかし強みが役に立たないなら手持ちのカードがありません。主は下手な慰めをなさいません。追い打ちをかけるように失敗を確かめさせます。用いられるのは自分の無力さに砕かれてからです。器が空であるほど、主が満たして下さいます。

 

失敗の中に復活の主を見るかどうかは自分の無力さを見つめるか、無力を承知で用いようとされる主を認めるかの違いです。飛び込む者。船を運ぶ者。それぞれの反応で復活の主に近づいていきます。

 

岸辺に朝の食事が用意されます。疲れた者をもてなす主の恵みが備えられます。信仰者が倒れないように力づけるのです。魚の種類は世界宣教の祝福とも言われます。私たちに与えられた道に打ち込むなら、必ず神の国の拡大に用いられるでしょう。

先週の説教概要

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